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浦和地方裁判所 昭和55年(ワ)1432号 判決

原告

相川芳雄

被告

青木廣

右訴訟代理人

須田清

伊藤一枝

岡島芳伸

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1(当事者)の事実は当事者間に争いがない。

二請求原因2(本件医療事故の発生)の事実について

原告が、昭和五三年一月二〇日、浦和市内の路上を歩行中、転倒して右大腿骨々折、右両下腿骨々折、右足関節脱臼骨折の傷害を負い、同日、救急車で被告の病院に搬入されて入院し、被告の診察、治療を受けることになつたこと、被告が、原告の負つた右足関節脱臼骨折について、観血療法を行わず、同人の右大腿骨々折及び右両下腿骨々折に対するのと同様にギプス固定による保存療法を採用し、原告が、同年五月二八日、浦和整形外科に転医するまでの間、約四か月間にわたり保存療法を継続したことは、当事者間に争いがない。

そして、〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

1  原告は、右のように保存療法を継続する被告の治療方針に不信の念を抱き、前記のように、同年五月二八日、浦和整形外科に転医した。そして、原告は、同月三〇日、浦和整形外科において、右足関節固定手術を受け、その結果、原告の右足関節は固定された。

2  原告は、四九歳位のときに右股関節結核に罹つて右股関節固定手術を受けたため右股関節強直、右下股短縮五センチメートルの後遺障害が残り、既に東京都から身体障害者第二種四級の認定を受けていた。しかるに、原告は、本件転倒事故により前記のような多発性の骨折による傷害を負い、また、特に右足関節については、前記のとおり関節固定手術を受けたため、前記の後遺障害に加えて、新たに右足関節機能全廃、右膝関節機能障害、右下肢短縮八センチメートルの後遺障害が生じ、東京都から身体障害者第二種三級の認定を受けた。

以上の事実が認められ、他に右の認定を覆すに足りる証拠はない。

三そこで請求原因3(被告の責任)の事実について判断する。

1  〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

(一)  昭和五三年一月二〇日午前九時五九分ころ、被告は、救急車で被告の病院に搬入された原告を診察のうえ直ちにレントゲン撮影による検査をしたところ、右大腿骨々折(右膝関節上部骨折)、右両下腿骨々折(右膝関節内の脛骨々折と右腓骨々折)、右足関節脱臼骨折の多発性骨折が確認された。同日午後一二時五分の検査によれば、原告の脈博数は一分間に八四(以下、脈博数はいずれも一分間の数値である。)、呼吸数は一分間に二四(以下、呼吸数はいずれも一分間の数値である。)、血圧は最高一六六、最低八八であつた。被告は、原告に対し、輸液によつてキシリット(輸液用糖液)、アルクトラクト(乳酸加電解質輸液)を補給するほか、ケーツー、リカバリン(いずれも止血剤)を静脈注射した。そして、被告は、同四〇分ころから、原告の右足側の腰部から足先にかけてギプス包帯を巻いて固定し、併せて腫張による循環障害予防のためギプスの前面を切開した。午後三時二〇分の検査によれば、原告は体温が38.2度、血圧が最高一八六最低九八となり、どちらも上昇を示した。また、原告は自然排尿を見たが、疼痛の増大を訴えたため、被告は、ソセゴン(鎮痛剤)、ケフリン(抗生物質)、止血剤を投与した。午後四時一二分の検査によれば、原告は脈博数が九二、血圧が最高二〇二最低一二〇と、いずれも更に増加し、また、呼吸数も四〇(通常は一八)に増加して呼吸困難が認められ、他にも、嘔気、顔面色不良、顔面発汗の全身状態が認められた。そのため、被告は、原告にアポロン(血圧降下剤)を投与し、原告の年齢(入院時、満七五歳であつたが、三日後の同年一月二三日に満七六歳となつた。)及び全身状態の悪いことを考慮して原告の生命維持に最大の関心を払つた。午後七時の診察時、原告は呼吸の困難を訴え、顔色はなお不良と認められた。そこで、被告は、直ちに原告に酸素吸入の処置を採るとともに、ネオフィリン(気管支拡張剤)、デキサシエロソン(副腎皮質ホルモン剤)を投与した。しかし、原告の状態は必ずしも好転せず、嘔吐があり、脈博数は増加し(午後七時一二分には一〇四、同二五分には一〇二、同四〇分にも一〇二と、脈博が非常に早い頻脈の状態が続いた。)、口唇チアノーゼ、胸部の湿性ラ音が顕著に認められ、同四〇分には、鼻翼呼吸(苦しいときに懸命に息をしようとして鼻が動く状態)が認められた。右のように、原告は、午後七時ころから約一時間にわたり生命の危険が認められる状態であつた。午後八時ころから、原告は、顔色が好転し、胸部の湿性ラ音も減少を示し、血圧も正常を示したが、心電図検査を行つたところ、心筋虚血の所見が認められた。

午後九時ころ、原告の口唇チアノーゼは消失したが、依然として頻脈と嘔吐が認められ、また、悪心の訴えが続いた。被告は、原告に対する酸素吸入を継続し、気管支拡張剤を静脈注射した。午後一一時過ころ、原告には、コーヒー残渣様の吐物の嘔吐が認められたが、同二五分ころには、胸部の湿性ラ音の消失が認められた。

被告は、その後、同日深夜から翌同月二一日の未明にかけて、原告の生命の維持に関心を払いつつ経過の観察を続けた。

(二)  翌同月二一日、原告の全身状態はやや回復したが、依然として、悪心を訴え、コーヒー残渣様の吐物の嘔吐が続いた。そのため、被告は、原告に対し、点滴、静脈注射及び酸素吸入を継続し、デキサシエロソン(副腎皮質ホルモン)を減量して継続投与した。同日午後からは、原告は、脈博数、呼吸数とも落着きを見せ、血圧とともに正常値に近くなつた。しかし、コーヒー残渣様の吐物の嘔吐は一日中続いた。午後七時二〇分ころ、被告と、当時、被告の病院内に居住して東京慈恵会医科大学麻酔科教室に助手として勤務し、毎週土曜日の夜から日曜日にかけて被告の病院の診療にあたつていた医師訴外高木博(以下「高木」という。)は、原告を診察したが、その際、ギプスがずれて膝関節の部分で折れていたので、原告の右足側に、新しいギプスを巻き直して、再固定した。

(三)  同月二三日、原告は、順調な回復を示し、心電図も正常となり、夜には食欲も良好を示した。

(四)  同月二四日、原告には、右下腿の腫張、疼痛が顕著に認められるほか異常所見は認められず、本件多発性骨折の受傷後に発現した生命の危険を窺わせる合併症の予後は良好に安定したものと認められた。なお、被告は、原告の胸部、膝関節部のレントゲン撮影を行つた。

(五)  同月二五日、原告は順調に回復して平静の状態に戻つた。

(六)  同月二八日、被告、当時東京医科大学整形外科教室の助教授(現在、同大学形成外科教室教授)であり被告の病院に毎月一回ないし二回の割合で診察に来ていた医師訴外牧野惟男(以下「牧野」という。)及び高木の三人は、被告の病院で、原告に対する観血療法の適否について検討を行つた。その結果、以下のような理由により、原告に対しては観血療法を行うべきではなく、ギプス固定による保存療法を行うべきであるとの結論に達し、被告は、原告の前記各傷害について、その右足関節脱臼骨折も含めて保存療法を採用することとなつた。すなわち、

(1) 原告には、前記のとおり、受傷後約六時間後位から、呼吸困難(呼吸数は最大時に四〇となつた。)、口唇チアノーゼ、胸部湿性ラ音の聴取、頻脈、発熱などの所見が認められ、多発骨折の受傷後にみられる致命的な合併症である脂肪塞栓の発症が強く疑われたこと、

(2) 原告には、前記のとおり、受傷後約一〇時間くらいから嘔吐が頑固に認められ、しかも、吐物はコーヒー残渣の様相を示すようになつたので、この所見からは胃出血の持続が疑われ、高度の外傷後にしばしば生じる重篤な合併症であるストレス潰瘍(この合併症は高度になると出血により死亡する危険性がある。)の発症が強く疑われたこと、

(3) 原告が当時満七六歳の高齢であり、しかも、脂肪塞栓、ストレス潰瘍ではないかと強く疑われる合併症から回復したばかりで体力的に衰弱しており、手術による侵襲が原告の肉体に与える影響は極めて大きいと判断されたこと、

(4) そして、原告には、手術による侵襲が加わると右(1)、(2)と同じような致命傷となる危険性のある合併症が再度発現する可能性が認められ、右(3)のように、原告が手術による侵襲から受ける肉体的な影響は大きいと認められていたこととも相俟つて、原告に観血療法を行うことには生命の危険を伴うと認められたこと、

(5) 他方、同日の時点では、原告の右足関節部の骨折は僅かに後方に転位している程度であり、危険を冒してまで観血療法を行うべき骨折の状況ではなかつたと認められたこと、

などに照らすと、あえて生命の危険を冒してまで観血療法を行うのは相当でないと判断されたからであつた。

(七)  被告は、右の検討結果に基づいて、原告に対する保存療法を継続したが、ギプスを除去する時期が近付いたので(ギプスによる固定は、下肢の場合、通常三か月程度必要である。)、原告の患部の状態を見るため、同年四月一四日、原告の右大腿骨、膝関節、足関節をレントゲン撮影した。その結果、大腿骨及び下腿骨中枢部(膝関節面)の骨折はよく癒合していたが、足関節部の脱臼骨折はやや転位が生じていることが判明した。そこで、被告は、この時点で、原告の右足関節脱臼骨折について、保存療法から観血療法に治療方法を切り換えることとし、右の観血療法への切り換えの準備に入り、手術前の検査として、原告の血液検査、胸部レントゲン撮影及び心電図検査を行い、同月二三日に原告のギプスを切除して局所の清拭を行つた。

(八)  そして、同月二七日、手術に先立つて、被告は、牧野及び高木とともに、被告の病院で、原告に対する手術の適否、治療方法の切り換えの適否などについて最終的な検討を行つた。その結果、以下のような理由により、右足関節部の脱臼骨折について観血療法を中止した。すなわち、

(1) 原告の右足関節部の脱臼骨折にやや転位の増強がみられるにしても、その状態でほぼ変形治療として完成しており、これに対して観血療法を行うのは、一度癒合している骨を再びはがしてから整復することとなつて、手術による侵襲が大きいと認められたこと、

(2) したがつて、手術の侵襲により、本件受傷直後に原告に発現した、脂肪塞栓、ストレス潰瘍と疑われる合併症と同じような致命症となる危険性のある合併症が、再度発現する可能性が認められたこと、

などに照らすと、右のような危険を冒してまで観血療法を行うことは相当でないと判断されたからであつた。

以上の事実が認められ〈る。〉

2 原告は、被告には、原告の右足関節脱臼骨折の傷害について遅くとも昭和五三年四月二〇日ころまでには観血療法を行うべき注意義務があつたにもかかわらず、これを怠り慢然と四か月間もの長期間にわたり保存療法を継続した過失がある旨主張する。しかしながら、前記認定のとおり、(一)原告に、受傷当日の昭和五三年一月二〇日発現した前記認定のような呼吸困難(呼吸数は最大時に四〇となる。)、口唇チアノーゼ、胸部湿性ラ音の聴取、頻脈、発熱などの所見によれば多発骨折の受傷後にみられる合併症である脂肪塞栓の発症が強く疑われ、しかも、原告に発現した所見に照らすと、これが致命的な合併症に発展する危険性が認められたこと、(二)また、原告には、前記認定のとおり、同月二〇日の夜から翌二一日にかけてコーヒー残渣様の吐物の嘔吐が頑固に認められたが、この所見によれば、高度の外傷後にしばしば生じる重篤な合併症であるストレス潰瘍の発症が強く疑われ、しかも、この合併症は高度になると出血により死亡する危険性があること、(三)原告は、当時満七六歳の高齢であり、しかも、脂肪塞栓、ストレス潰瘍ではないかと強く疑われる合併症から回復したばかりで体力的に衰弱しており、手術による侵襲が原告の肉体に与える影響は大きいと認められたこと、(四)そして、当時の原告には、手術による侵襲が加わると、右(一)(二)と同じような致命症となる危険性のある合併症が再度発現する可能性が認められ、右(三)のように、原告は、年齢的、体力的に、手術による侵襲から受ける肉体的な影響が大きいと認められていたことと相俟つて、原告に観血療法を行うことには生命の危険を伴うと認められたこと、(五)他方、同月二八日の時点では、原告の右足関節部の骨折は僅かに後方に転位している程度であり、あえて生命の危険を冒してまで観血療法を行うべき骨折の状況ではなかつたと認められたこと、以上の事実が認められ、これらの事実に、〈証拠〉を総合すると、被告が、昭和五三年一月二八日の検討の結果に基づき、原告に対し、観血療法ではなく保存療法を採用したのは相当であつたものと認められる。

なお、被告が、同年四月一四日に撮影したレントゲン写真に基づき、一旦は、原告の右足関節部の脱臼骨折について保存療法から観血療法に治療方法を切り換えることに決定しながら、同月二七日、これを中止し、そのまま保存療法を継続した点について検討すると、前記認定のとおり、(一)同月一四日の時点で原告の右足関節部の脱臼骨折にやや転位の増強が見られたのであるが、その状態でほぼ変形治癒として完成しており、これに対して観血療法を行うのは、一度癒合している骨を再びはがしてから整復することとなつて、手術による侵襲が大きくなると認められたこと、(二)したがつて、右のような手術を行えば、原告には、既に認定したとおり、本件受傷直後に、脂肪塞栓、ストレス潰瘍の発症が強く疑われる合併症が発現しており、原告はこのような合併症を起し易い体質でもあるから、手術による侵襲により、再度、同じような致命症となる危険性のある合併症が発現する可能性があると判断されたこと、以上の事実が認められ、この事実に〈証拠〉を総合すると、被告が、同月二七日の時点で、原告の右足関節脱臼骨折に対する治療方法として採つた前記の措置は不相当なものであつたとは認められない。

以上のように、被告が原告に対して観血療法を行わなかつたことが、不相当であつたということはできず、被告には、原告主張のような過失は認められない。したがつて、原告の右の主張は失当である。

3 次に、原告は、仮りに、被告において右足関節について観血療法を行うことができなかつたとしても、被告には、昭和五三年四月ころまでに原告に対して右足関節固定手術を行うべき注意義務があつたにもかかわらず、これを怠り、慢然と保存療法を継続した過失がある旨主張する。しかしながら、原告主張のとおり、右の時点で右足関節固定手術を行つたとしても、関節固定手術は関節を固定してしまうもので、右足関節の機能は全廃することとなるから、原告に現に生じている障害(前記二2)の発生を防止することは困難であり、その点で、原告の右の主張は疑問であるばかりでなく、〈証拠〉によれば、(一)原告には、同年四月一四日の時点で、右足関節部の脱臼骨折にやや転位が認められ、そのまま保存療法を継続して変形治癒のまま全治したときは、将来、歩行時に疼痛の生じる変形関節症の発症も考えられたが、それに対する治療法としての足関節固定手術は、現実に疼痛が発症したときに考慮すれば足り、変形関節症が現実に発症していない同年四月までの時点で、急いで足関節固定手術を行う必要性はないと認められたこと、(二)また、前記のとおり、原告は既に右足側の股関節固定手術を受けているため右股関節は固定されており、また、前記のとおり、右膝関節のごく近くの部位に複雑骨折があり、膝関節に強度の屈曲障害が出現することは避けられないと認められたので、なるべく右足関節固定手術を行わず、少しでも右足関節の可動性を残すことが好ましいと考えられたこと、(三)さらには、原告は、右(二)のように、既に右足側の股関節固定手術を受けており、そのため、右足は主たる荷重脚ではなく、変形関節症の発症はその可能性が少ないと認められたこと、以上の事実が認められ、右の事実に証人牧野惟男の証言及び被告本人尋問の結果を総合すると、被告が同年四月までに原告に対し右足関節固定手術を行わなかつた措置は相当であつたと認められる。したがつて、原告の右の主張は失当である。

四以上の検討によれば、原告の本訴請求は、原告のその余の主張について判断するまでもなく失当であると認められるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(下村幸雄 河野信夫 田村眞)

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